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台北の大学や専門学校で学ぶ原住民の学生には、現在、さまざまな研修やスタディ・ツアーの機会が用意されている。これは、ツォウの
コミュニティづくりの成功例を見学した際に、村の合唱団が歓迎の歌を披露する場面 (二〇〇二年)
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同系色の色の差は、同一言語に区分されるなかでの言語的 ヴァリエーションを示しています。灰色部分は、政府の指定する「原住民居住区域」以外の地域で、原住民人口が多い「都市原住民分布区域」です。 (國立政治大学原住民族語言教育文化研究中心作製)
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
日本が戦争に敗北し、台湾から去った後、中華民国政府の政策のもとで、台湾原住民は今度は中国化を迫られることになります。原住民の戸籍登記は、漢族風の姓名に変えることが求められ、教育は中国語で行われることになりました。また、原住民居住地域では、一九五〇年代以後にキリスト教が急速に広まりました。貨幣経済への依存度も次第に高まり、新しい生活様式が持ち込まれ、伝統的な文化はますます失われていくことになりました。こうしたなかで、日本教育を受けた古い世代と戦後世代との意識や生活スタイルのギャップも広がっていきました。台湾の経済発展とともに、原住民の若者の中には、現金収入を求めて都会へ出て行く人が急増しました。山地の過疎化や高齢化が進むと同時に、都会に出た人たちも低賃金や悪条件での労働を余儀なくされ、社会の底辺に位置付けられるなど、深刻な問題も生じています。
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このような原住民社会が新たな転換点を向かえたのが、一九八〇年代後半のことです。台湾社会の民主化、国際的な先住民族の復権運動などを背景にして、台湾原住民の権利回復運動が盛り上がっていきます。一九八四年に成立した台湾原住民権利促進会は、台湾の複数の民族がまとまって立ち上がった運動の出発点になったといえましょう。「原住民」「原住民族」という呼称自体も彼らが選び取った自称であり、一九九四年には憲法にも明記されることとなりました。
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ツォウの村で首長、長老、学者、識者などが集まって開かれた自治研究のための座談会の様子(二〇〇二年)。近年、台湾の政府は、台湾原住民の自治実現を約束した。各地でそれに関する議論が続けられている。
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